短編:噛む
短編:噛む
お茶目な歯医者と無邪気な級友。
集中出来ないのは外の工事の音のせいだと信じています。
顎を使いなさい、と歯医者から渡されたよく分からない形状の器具。顎を使えば歯並びも良くなる、と言うのはいささか短絡的じゃあないのかとも思ったが、折角好意で頂いたもの(後にそれは受診料に含まれていたと知った。神よ!)を使わないのもばつが悪いので、毎食後私はそれを噛むことにしている。
家で噛むのは別に良いのだが、問題は学校だった。
噛んでいるところなど、正直あまり見られたいものではない。恥ずかしいというよりも、級友の疑問に一々説明するのが流石に面倒で、私は学校で一番人気のない洗面台に赴いてひたすら人工樹脂を噛んでいた。のだが。二日目にして人と遭遇してしまうことになる。
空気を読んでいるのか何も聞かずに、しゃこしゃこ手を洗っているのは多分いや絶対私の級友に違いない。どう声をかけたものか、いやかけるべきなのか、悶々思案していると、「赤ちゃんみたいだね」と低い声。黒い目がじっと私を見ている。焦った私はこともあろうに「噛んでみますか」と器具を差し出し、言った言葉にさらに焦り、ひょいと取り上げられた器具をぼんやり見ているしかなかった。
色の薄い唇を開きかぷりと口に入れ、十分咀嚼する白い歯。つ、と銀の糸をひいて解放されたそれを長い指で拭い「不味いね」と一言。そりゃあ美味しくはないでしょうに。呆気にとられる私に「従姉妹が同じのを噛んでたよ」と目を細めて笑う。
あわてて破った袋を見ると、『歯がため 三ヶ月から』とパステルカラーのプリント。頬がかっと熱くなってスカートをつかみながら上目遣いに級友の顔を見ると、不思議そうな顔。ああ、あの歯医者め!顔を見ていられなくて、うつむくいて、そして差し出される人工樹脂。「噛まないの?」。ずい、と口に近づけられて、私は思わず口を開いてしまった。「本当に赤ちゃんみたい!」。ああ、もうなんとでも言ってくれ!
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