現在、時間は過去から未来に流れているわけですが、前近代においてはそうでなかったようです。
時間は一方通行ではなく循環するものとして捉えられていました。今は連続した一地点の一つなわけです。四季のある日本だから、「循環」という概念があったのでしょう。
だから、過去も今も無くて、あるのは「昔」という漠然とした概念だけ。
さらに循環する時間は、同じ次元に「昔」と「今」を同時に存在させます。
しかし、「昔」と「今」の境界は一応あるものの、崩れやすく、しばしば「昔」は「今」に顔を覗かせます。それは現在でも同じで、その証拠に、この近代化された社会の中でも、しばしば水子の霊や先祖の魂が「今」に現れるのです。
……という内容の評論を読みました。
それについて説明する際に、評論内では、数字で区切られた均質な時間と、数字で区切らない漠然とした時間、の異なった時間がある、と述べられていました。前者は私たちが日常で使う時間(日付や時計による時間)、後者は記憶のなかにある時間。
私たちは記憶の時間の方を、例えば写真を日付順にアルバムの中に仕舞うことによって、均質な時間の中におくのです。
思い出や記憶の中に、均質な時間は無い。
誕生日とか記念日だとか、特定の日付に密接に繋がっている思い出も、その日付の中に思い出があるわけではなくて、むしろ、思い出の中に日付がある。思い出には過去も未来もなくて、ただ思い出というそれそのもので存在している。
そんなことを思いました。
そんなイメージで私は作品を書いています。
時間をなぞるのではなくて、ふとした瞬間に思い出したエピソードを、思いついたように。だから時間系列はよく見るとばらばらです。
昨日を思い出したり、一年前を思い出したり。書いていたエピソードから派生して、さらに昔をを思い出したり。
そんな思い出たちをなんとなく脚色してまとめたものが、あれです。要は私小説ですね。
なにが言いたいのかと言うと、評論文は難しいということです。
要約内容にあまり責任は持てません。
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