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それでも君を*****。――別館

(日常とか解説とか)

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補:書くときと織物語

バトンと被りますが。


文、というかあちらの文章を書くときには、音感と印象を大事にしています。深く考えたくなるような、深読みしたくなるような。
大抵は意味を持たせていますが、無いときもあります。人が、ふ、と思うことと同じように、必ずしも筋が通っているわけではないけれど、透明でさらさらしているもの。不条理で矛盾に満ちているけれど、それ故に純粋。理屈立っているから綺麗なわけでもないのです。

そういう意味で長編とは言えないのかもしれませんが、前提知識や伏線が溜まれば溜まるほど、考える度合いも深くなりますので、ずるずる引っ張ってみています。

目指せ、純粋な不条理。という心意気です。話の中で人間は、物凄くめんどくさい思考を繰り広げます。
深読みは禁物ということです。



そんなわけでめんどくさい思考目白押し・織物語について。

前述した「物語」(=過去)を縦糸に、織物語(=現在)を横糸に、完成形へ向かっていきます。
テーマは「繋ぐ」。出来事には必ず因果がある。不可解で不条理な「私」や「彼女」や登場人物たちの行動の意味付け、行動と行動、感情と感情の間を繋げる「何か」の可能性を明らかにする物語です。
そういう意味で「純粋な不条理」要素は薄い(むしろ対照的な)仕様です。

入り組みすぎて分かりにくいことこの上ない。なにが入り組んでいるって時系列が。ブログ内検索が初めて有効活用されています。
言っておきながら過去を繋ぎ切れていない感じですが、そんなこんなで織物語は続いていきます。

(100205加筆)

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補:嘘吐きと偽善者の逃避行 1

思い出と逃げ続ける後ろ向きな思考若しくは願望を良心若しくは向上心若しくは現実が殺すが存在を忘れられたために良心は消え結局思い出と逃避行を続けるはなし。

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補:大会物語②


◇赤に教えた理由

ちなみに下書きの段階では、「7月14日 ブドウとじゃがいもは、同じ畑に生らない」の続きに、「私」と浅の会話が書かれていました。

『ねえ、赤。勝ちたかったのは、私だけだったのかな、頑張りたかったのは、私だけだったのかな、悔しいのは、私だけなのかな』
『それはないとおもうよ。運動部でさ、きっと気丈に振舞うしかないんだ』
地異は優しく言った。
(略)
『いつか負けると思っていた。いつか負けると思っていたよ。それが今とは思わなかったけれど』
『うん、』
『本当は、負けて欲しかったんだ。練習の時、負けて欲しかったんだ。そうすれば、エースも皆も、もっとやってくれる、って思ってた。でも、負けなかったし、たまに負けても、皆、本気じゃなかったよね、みたいな感じだったんだ』
赤は、ああ、と心当たりがあるように頷いた。
『でもしかたが無いんだよ。エースや永遠は、大会に全てをかけることは出来ないんだから。それについて、なにも言えない』


 
あまり深い意味は無いのですが、このやりとりがあると、「私」が赤に入れ込んだ理由に、赤の信念に打たれた以外の意味が強く加わり、結局「私」は帰属意識をもっていたことになってしまう、ので削った、ような気がします。
しかし「裏切り者はエースの足を洗う」の最後で『エースや世紀や永遠が/危機感を持てば良いと思っている』のですから、やっぱりそういう気持ちはあったのでしょう。
要は、「私」は赤たち敵に強くなって、練習の段階で味方を負かして欲しいとも考えていたのです。
しかし皮肉にも味方は強く、負けることはありませんでした。


◇「彼女」のまわりを取り巻く人

「彼女」は大会とは関係が無い、と言いつつも、シロツメクサの話からも分かるように、「彼女」は星、船頭、心臓と親交があります。
だから「私」は味方である星と船頭との関係が、「彼女」に関することで崩れるのを危惧します。しかし、『自分の直感と、彼女の他人行儀。どちらを信じるべきなのか/知っている』ので、『見ていた友人達も、星も、気にしないようにした』と、その問題を被害妄想だということにして、他人行儀な「彼女」を信じることにするのです。(皮肉にもそれは被害妄想ではなかったのですが)

ちなみに「私」がむやみに「彼女」を信じるように努力して、知らない振りをすることに拘っているのは、「戦争物語」(未完)であった出来事によるのですが、それもまたおいおい書いていくかと思われます。

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補:大会物語①


最後の球技大会のはなし。
大会物語と銘打ちながらも試合描写や練習風景は殆どありません。「私」とエース、永遠、世紀、三人の関係描写と、それぞれに関する心理描写が八割を占めています。


◇「彼女」と味方の関係性

あくまで味方は「彼女」とは別の場所での関係で、だから「彼女」に関する辛いことや悲しいことは考えなくてすむ、と思いきや、味方(「私」と同じチーム)と敵(他のチーム)の間がぎすぎすしだしてしまう。
「彼女」に関する辛さを忘れさせる場所になるはずの味方が、味方に関する辛さを忘れさせる場所としての「彼女」を必要とさせてしまい、結局味方に入れ込んでいる(と信じている)「私」は、味方たちの問題を知らない振りはできず、「彼女」に関する問題をなかったことにして、「彼女」をまた支えにしてしまうのです。

「妄信物語」で、『私は彼女のことを愛してなどいなかった』『他人行儀が好きなくせに、近付いてしまった』と言いながらも、何かと味方や敵の話を「彼女」にしているのはきっとそのためです。そんなわけで、厳密に言うと「妄信物語」の後半は「大会物語」に入るのですが、「妄信物語」のラストに繋げるために敢えて「大会物語」に入れていません。

読むと分かるように、「彼女」は大会に全く関わっていません。味方(「私」と同じチーム)でもありません。だからこその不干渉であり、不干渉ゆえに「戦争物語」と全く同じ現象が起こったのです。


◇「ありがとう」の理由

夏物語に入りながら何故か更新された「7月17日 過去の清算」は、「私」の大会に対する印象のまとめ的な役割を果たしています。その中での問い『何故口をついたのが感謝の言葉だったのか』の答えが、『誰も責めないのなら/私だけでも/私を責め』させるのですが、答えは明示されていません。

「妄信物語」で、東と話した翌日、世紀が「私」に笑顔で手を振ったのを見た「私」は、東のことが知られたのだろうか、何故他人行儀じゃないのか、といたずらをした後の子供みたいな様子です。世紀はおそらく今までと態度を変えていません。が、「私」はうしろめたいことがあるので疑心暗鬼なのです。
文中で明言されていない東との話は、味方に関するものだったのではないでしょうか。味方に対する悪意は無いものの、自分の知らないところで話をされるのは嫌かもしれない、ということですね。(戦争物語参照)

「ありがとう」がエースの「頑張って」に対する「ありがとう」という意味であること、赤や東の話、何故味方に関する話を、味方でなく東としたのか。それらを合わせれば、『何故口をついたのが感謝の言葉だったのか』の答えは「帰属意識の低さ故」でしょう。

味方に入れ込んではいたものの、自分がシュートを決められるとは思っていない、エースや永遠がいるから、自分は勝敗に関わらない――そう思っていた(実際練習の時は事実だった)けれど、実際本番になって強い相手に当たってみると、全員が頑張らなくてはいけない。でも「私」はエースの思いを受け損ねて、何も出来なかった。常に自分が世紀に訴えていたことを、自分が出来なかった。でも誰も責めない。そもそも、誰も気づかない――だから「私」は髪を切ったのです。

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前近代と近代における時間概念の違い

現在、時間は過去から未来に流れているわけですが、前近代においてはそうでなかったようです。

時間は一方通行ではなく循環するものとして捉えられていました。今は連続した一地点の一つなわけです。四季のある日本だから、「循環」という概念があったのでしょう。
だから、過去も今も無くて、あるのは「昔」という漠然とした概念だけ。

さらに循環する時間は、同じ次元に「昔」と「今」を同時に存在させます。
しかし、「昔」と「今」の境界は一応あるものの、崩れやすく、しばしば「昔」は「今」に顔を覗かせます。それは現在でも同じで、その証拠に、この近代化された社会の中でも、しばしば水子の霊や先祖の魂が「今」に現れるのです。

……という内容の評論を読みました。

それについて説明する際に、評論内では、数字で区切られた均質な時間と、数字で区切らない漠然とした時間、の異なった時間がある、と述べられていました。前者は私たちが日常で使う時間(日付や時計による時間)、後者は記憶のなかにある時間。
私たちは記憶の時間の方を、例えば写真を日付順にアルバムの中に仕舞うことによって、均質な時間の中におくのです。


思い出や記憶の中に、均質な時間は無い。
誕生日とか記念日だとか、特定の日付に密接に繋がっている思い出も、その日付の中に思い出があるわけではなくて、むしろ、思い出の中に日付がある。思い出には過去も未来もなくて、ただ思い出というそれそのもので存在している。
そんなことを思いました。



そんなイメージで私は作品を書いています。
時間をなぞるのではなくて、ふとした瞬間に思い出したエピソードを、思いついたように。だから時間系列はよく見るとばらばらです。
昨日を思い出したり、一年前を思い出したり。書いていたエピソードから派生して、さらに昔をを思い出したり。
そんな思い出たちをなんとなく脚色してまとめたものが、あれです。要は私小説ですね。


なにが言いたいのかと言うと、評論文は難しいということです。
要約内容にあまり責任は持てません。

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