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それでも君を*****。――別館

(日常とか解説とか)

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メールの文章について思ったこと

メールは手紙以上にひとが表象されていると思います。という話。先の記事と矛盾するようなしないような。

メール慣れしていない人であればあるほど、メールの文章を読んで照れ臭くなってしまうのは、文章が客体化しきれず、その人の気持ちがストレートに文字に落とされてしまっているからかもしれません。

普段人が建前という名のオブラートで(或いは無数の言葉の盾で)隠している部分が露骨に表れて、純粋無垢なそれがなんともいえない気持ちにさせてしまうのです。

携帯電話が手紙以上に簡単で私的である故に、それは他人との対話ではなく、私と私の対話に近いものがあります。「他人」の存在がより抽象化され、「私」を誇示する良い機会だと言わんばかりに内面が流れ出します。言葉は多すぎたり少なすぎたり。

あるいみメールは危険です。

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(no subject)



□「今 2」と「線前雨秋」について

「ラスト・ダンス/戦友」に繋がる対比構造。ずっと不干渉だった「私」の能動的な接触のターン。「線前雨秋」は「10月10日 秋雨全線」の裏返し。

時間軸は、「秋雨全線」→「戦友」→「今 2」。


「接触を許容出来なかった/潔癖になっていて/触ることができない」と言っていた「私」は「ラスト・ダンス/戦友」で「彼女」の手を握る。しかしそれは「彼女」の手ではなく「戦友」の手だ。それ以上でもそれ以下でもなく、「私」が包んだ手に、何の含意も無かったに違いない。「彼女」はそれを知ってか知らずか、「全てを了解したかのように」笑う。
そして「私」は、その笑顔に共通の目的を見いだすことに成功した。
「私」は、「彼女」に関係しない、自分自身から生まれる原動力を思い出し、全てを懸けた力の発露を予感する。
過去への回帰という名の、前進を含んだ話である。


一方、「彼女」に「彼女」としてする初めての接触は、劇的なエピソードでもなければ、不可避的な偶然でもない。「最初の一回の切っ掛けなど/気紛れに過ぎない」、「ただ、何の意味も」ない行動だ、と認識する「私」とは裏腹に、実際は全てに「今 1」を踏襲している。

過去に対する不振を払拭出来るのは「今」しかない。不振は常に過去と紙一重で、「今」で塗り替え続けていなければ、「病的な被害妄想」で覆い尽くされてしまう。それを「私」は無意識のうちに信じていたから、「戦争物語」「盲信物語」では同じことを何度も繰り返していた。

その方式を薄ぼんやりと自覚しながら、同じことをまた繰り返し、「『今』だけがあればいい」と「私」は考える。

「ラスト・ダンス」とは対照的な退歩の物語だが、ネガティブな爽やかさを持った話だ。

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補:祭物語・空物語 1


□サブタイトルについて蛇足

「10月16日 ラスト・ダンス/欠如」→「彼女」に対する言葉と配慮の欠如。

「10月16日 ラスト・ダンス/サイレンサー」→「彼女」の話し方、「用意していた言葉を間を見て打ち込むような」と「私は/会話にサイレンサーで終止符を打ちこむ」から。音もなく打ち込まれるのでそれに気づかない、言外の意図の意。

「10月23日 一本の箸、二本の杖」→無意味なもの。「私」のしたことは意味がないという皮肉を込めて。

「10月26日 流星のダスト・シュート」→10月23日の続き。星の彼女に対する発言の示唆。

「10月23日 逃げる糸みみず」「11月6日 餌のない釣り針」→糸みみずは釣りの餌。伏線未回収。糾弾を招く発言(その比喩としての「餌」)を作らないように「逃げる」けれど、それでも糾弾を避けられなかった一連の流れ。

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私信返信弐








>1/2017:55(本館)伊藤南さん
精進します。

>拍手の方々
原動力です。

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