□「今 2」と「線前雨秋」について
「ラスト・ダンス/戦友」に繋がる対比構造。ずっと不干渉だった「私」の能動的な接触のターン。「線前雨秋」は「10月10日 秋雨全線」の裏返し。
時間軸は、「秋雨全線」→「戦友」→「今 2」。
「接触を許容出来なかった/潔癖になっていて/触ることができない」と言っていた「私」は「ラスト・ダンス/戦友」で「彼女」の手を握る。しかしそれは「彼女」の手ではなく「戦友」の手だ。それ以上でもそれ以下でもなく、「私」が包んだ手に、何の含意も無かったに違いない。「彼女」はそれを知ってか知らずか、「全てを了解したかのように」笑う。
そして「私」は、その笑顔に共通の目的を見いだすことに成功した。
「私」は、「彼女」に関係しない、自分自身から生まれる原動力を思い出し、全てを懸けた力の発露を予感する。
過去への回帰という名の、前進を含んだ話である。
一方、「彼女」に「彼女」としてする初めての接触は、劇的なエピソードでもなければ、不可避的な偶然でもない。「最初の一回の切っ掛けなど/気紛れに過ぎない」、「ただ、何の意味も」ない行動だ、と認識する「私」とは裏腹に、実際は全てに「今 1」を踏襲している。
過去に対する不振を払拭出来るのは「今」しかない。不振は常に過去と紙一重で、「今」で塗り替え続けていなければ、「病的な被害妄想」で覆い尽くされてしまう。それを「私」は無意識のうちに信じていたから、「戦争物語」「盲信物語」では同じことを何度も繰り返していた。
その方式を薄ぼんやりと自覚しながら、同じことをまた繰り返し、「『今』だけがあればいい」と「私」は考える。
「ラスト・ダンス」とは対照的な退歩の物語だが、ネガティブな爽やかさを持った話だ。